帝王と呼ばれた男の光と影・・・|高額査定を受ける為に知っておきたい事前知識・価値
絵画 買取

帝王と呼ばれた男の光と影・・・

世の中に報われるかどうかは、わからない。無名のまま生涯を終える者もいれば、富も名声も掴む者がいる。今日ご紹介するのは、一世を風靡した画家です。自分の名を冠した美術館を残すことも出来ました。亡くなる2年前、高層ビルの42階に。
画家の名 は、東郷青児。「帝王」と呼ばれた男。 誰もが目にしたことがあるのにじっくり見たことが無い。それが、東郷の作品だと言われます。一目見ただけで、納得してしまうからなのでしょうか?あ、東郷青児だと。今日の一枚は、彼の代表作。「望郷/ノスタルジア」。
砂漠に古代遺跡という幻想的な背景。その前で、まるでポーズを取るようにスカーフを巻いた少女が、風に吹かれています。くびれた腰。しなやかな腕。長い首。現実離れした完璧な肢体が、画家の美意識なのでしょう。
マチエールと呼ばれるキャンバズの表情。迷いも、乱れもなく、鍛え抜かれた職人のように滑らかに塗られています。使われている色は、ほんの僅か。グレーと肌色、その微妙なグラデーションで一枚の絵を成立させているのです。
唇の桜色が、一点の暖かさを宿しています。画家は、二次元の人形師のようにどこを探しても存在しない女性像を作り上げたのです。東郷青児の美人画を。
東郷青児は、仁科会という美術団体のドンとして戦後の日本に君臨した画家でした。彼に張りつけられたレッテルは。その毒を含んだ評判とは裏腹に、彼の美人画は、昭和の日本人の心に染み渡っていったのです。一つの記号のように。そう、絶えず暗い情感と孤独を漂わせる美人画を。その薄い皮膚のようなマチエールの下に隠されているもの。「帝王」と呼ばれた男の光と影・・・。
仁科会の「帝王」と呼ばれた画家です。終戦後、画家の団体である仁科会の再建に奔走した東郷青児は、展覧会に観客を動員する為に、いつも派手なパフォーマンスを繰り広げました。自らを「興行師」と呼んで。
東郷は、芸術という砦の中から絵画を取り出し、大衆の前にさらけ出したのです。その強烈な人間性とは裏腹に、画家が描き続けたもの。18歳の時に描いた作品、「コントラバスを弾く」。
「赤とんぼ」の作曲家山田耕作の知恵を得た東郷は、カンディンスキーの存在を教えられ音楽と絵画の融合を試みたと言います。その年彼は、山田耕作の勧めで初めての個展を開きました。翌年には、仁科展に出品し、仁科賞を獲得。弱冠19歳の若者は、新進気鋭の前衛画家としてデビューを飾ったのです。
大正10年、東郷はフランス留学を決意します。結婚したばかりの妻を残し、パリに向かったのです。しかし、留学費用はたちまち底をつき貧乏の辛酸を嘗る事になります。その腹を埋めるように、ダダ、キュビズム、未来派と新しい芸術を吸収していきました。
当時パリには、ピカソという巨人がいました。多くの画家が、その強烈な作風の影響を受けていました。東郷もその一人。いかにピカソの影から逃れるか?自分の絵をみつけることが出来るのか?その苦悩の結晶。
旅芸人は、パリの画家たちが好んだ題材です。ピカソのような大胆な構図とフォルム。しかし、独特の湿度と位叙情。昭和3年、長いフランス生活を終えて帰国した東郷は、疎外感に襲われます。東京は、異国のように馴染めず、絵も熟れないという暮らしが続きました。
彼の名を有名にしたのは、或る事件です。19歳の女性との心中未遂。心中事件の年に描いた作品「超現実派の散歩」。東郷青児のもう一つの顔。心の自画像。東郷が西崎盈子と正式に結婚したのは、心中事件から10年後のことです。離婚やアトリエの建設で借金を抱えていた東郷は、前衛絵画を描く傍らで、買い手のつきやすい小さな作品を手がけていきました。
女性画を描き始めたのです。長く暗いトンネルを抜け出すように。やがて東郷は、誰もが美しいと思える絵を描きたいと思い始めるのです。「僕は座り心地の悪い理論の椅子を古道具屋に売り払ってしまった」そして、一歩一歩確かめるように自分のスタイルを作り上げていきました。
色数を減らし無駄なものを削ぎ落とし単純な線と理想のマチエールを求めて。東郷が、理論ばかりの「芸術」を棄てた時、ひとつの鉱脈を発見したのです。旅の涯に、みつけたもの。それが美人画でした。浮世絵や日本画のような。
デパートにある昭和の遺産です。エレベーターに描かれた東郷青児の絵。あらゆる場所に絵を残そうとした画家です。誰もが手に取れるように。東郷が、暫し比較された画家がいます。美人画の竹久夢二です。
大正3年、当時人気絶頂の竹久夢二は、日本橋に自分の絵草子を売る「港屋」を開きました。「港屋」は、作家や画家の溜まり場でした。その中に、17歳の東郷青児がいたのです。「港屋」を切り盛りしていたのは、夢二の妻だった岸たまき東郷は、このたまきに可愛がられたのです。
画壇から無視されながらも、庶民にしじされた竹久夢二の美人画。東郷青児は、昭和の夢二のように美人画を描き続けました。人々に愛されることが、画家の喜び。東郷は、有名無名の女達の膨大なスケッチを残しています。その制作は、画家の快楽でした。しかし、油絵は別です。
何よりも神経を使っていたのは、その滑らかなマチエール。地塗りはジンクホワイトを使い、鏡のような光沢が出るようパレットナイフで塗り上げます。これが、絵の皮膚になります。
出来上がったら、一年間寝かせて使います。絵の制作で最も嫌うのは埃です。アトリエ中を掃除します。虫が入らぬよう、窓は締め切ります。僅かな傷さえつけることが出来ないのです。
使用する色は、多くて5、6色。これを混ぜ合わせ、色を作ります。絵の具に混ぜるメディウムは、炭火で湯煎します。煮詰めて粘り気を出すと、画面に刷毛目が残らないのです。「途中で気に入らない箇所が出来ても、そこだけ描き直すわけにはいかない。
指一本、影一つ、気にいらないところが出来てもまた最初から出発し直さなければならない」「薄い絵の具を塗り重ねていって、最後に髪を描き、唇を描いて、筆を置く」この禁欲的な作業が、東郷の世界を作り上げるのです。
秘すれば花。広く愛されたその大衆性。東郷の絵は芸術なのか?そんな批評めいた声は、晩年まで続きます。その一方で仁科会のドンの東郷青児は、数多くの名誉を手に入れました。「作家と大衆が作品を通して渾然と融和する境地を常に夢想している。
しかし、これは私の理想であって、何をやっても自己本来の持ち味というものは、到底崩せない」絶えず漂う、寂寥と孤独。その暗い叙情を覆い隠すように、咲き誇る女たち。「もう10年若かったら砂漠に消えてしまいたい」それが、晩年の口癖でした。
その美術館には、彼が生涯をかけて求め続けた女たちが、ひっそりと息を潜めています。誰も真似の出来なかった皮膚のように薄い絵肌の下に命の鼓動を震わせながら。東郷青児「花」の作品情報はコチラよりご確認下さい。
査定無料お気軽にどうぞ美術品のご売却は、美術品買取専門のアート買取協会へ。6つの強みで安心とご満足をお届け致します。絵画・美術品売却はこちらから無料買取査定フォーム

この情報記事と内容が近い情報記事をご紹介しております

女性ウィッグ 通販

美術品買取の地域|出張無料査定

北海道
|青森|岩手|宮城|秋田|山形|
|福島|茨城|栃木|群馬|山梨|
東京神奈川|埼玉|千葉|
|新潟|長野|富山|石川|福井|
愛知|岐阜|静岡|三重|
大阪|兵庫|京都|滋賀|奈良|和歌山|
|鳥取|島根|岡山|広島|山口|
|徳島|香川|愛媛|高知|
福岡|佐賀|長崎|熊本|大分|宮崎|鹿児島|
|沖縄|