日本や東洋の絵画の支持体|高額査定を受ける為に知っておきたい事前知識・価値
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日本や東洋の絵画の支持体

フジタ自身の手による八角形の額縁に納められた本作品は、画家が戦後パリに戻ってまもなく描いたものです。画面の大半を占めるベッドの上では、ナイトキャップをかぶり寝間着をまとった二人の少女が、カフェ・オ・レとクロワッサンの朝食をとっています。
ふと食べるのを止めた左の少女はこちらを見つめ、右の少女は左側の少女の方をそっと見つめています。交わらない二人の視線からは、起きがけのけだるさが伝わってくるようです。白いナプキンには赤で、また白い食器には青で細いラインがアクセントとして施され、それらが色違いの寝間着と相まって、画家のこだわりがうかがえます。
1886年(明治19)、現在の東京都新宿区新小川町の陸軍軍医の家に生まれたフジタは、父の上司だった森鷗外の勧めもあり東京美術学校西洋画科に入学。当時主流であった明るい外光派風の洋画にあきたらず、1913年、26歳の時にフランスにわたります。
パリのモンパルナスに住んだフジタは、ピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの画家たちと交流しました。彼らに刺激され、独自のスタイルを追究するなかで、日本や東洋の絵画の支持体である紙や絹の優美な質感を、油絵で再現しようと思いつきます。
手製のなめらかなカンヴァスの上に、面相筆と墨で細い輪郭線を引き、繊細な陰影を施した裸婦像は、「素晴らしい白い下地(grand fond blanc)」「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛されました。1919年にはサロン・ドートンヌに出品した6点の油絵がすべて入選し、ただちに会員に推挙されるなど、フジタの作品はパリで大人気となりました。
1929年、凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国。1933年以降は日本を活動の拠点とします。日中戦争がはじまると、祖国への貢献を願い大画面の戦争画の制作に没頭しますが、戦後は画壇から戦争協力者として批判を浴び、その責任をとる形で日本を離れます。
再びパリに暮らし始め、日本には戻らないと決めたフジタは、1955年にフランス国籍を取得。1959年、72歳の時にランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられます。最晩年には、ランスに感謝を示したいと礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」の建設を志し、完成から2年後に没しました。藤田嗣治「少女」はコチラよりご確認下さい。
2013年4月16日放送|開運 なんでも鑑定団「相撲力士のお宝鑑定大会」
レオナール・フジタの油絵
●レオナール・フジタの油絵
●鑑定士(永井龍之介)の出した金額:\30,000,000
【鑑定士総評】
大変貴重なもの。昭和20年の秋、フジタ59歳、日本に滞在していた時に描いた日本女性の絵だが、彼が日本にいた期間というのは非常にわずか。その中で描かれた貴重な一点。背景に風景が描かれているが、その遠近感を活かすことで女性像が活きている。フジタはダ・ヴィンチに非常に敬意を抱いており、依頼品はまさに日本のモナ・リザと言ってもいい
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