有田でも最も有名な様式|高額査定を受ける為に知っておきたい事前知識・価値
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有田でも最も有名な様式

有田でも最も有名な様式です。この様式の作品の多くがヨーロッパヘ輸出され、ドイツのマイセン窯をはじめ、ヨーロッパ陶磁器に影響を 与えたことで高く評価されています。乳白色の素地に、余白をいかした上絵付け(染付の青がない)で上品な絵文様が描かれています。
薄く、端正につくられた器形で、そのうちの多くが口に褐色の銹釉(さびゆう)が塗られています。素地は、米の研ぎ汁の色にたとえられ、 有田では研ぎ汁を「濁(にごし)」ということから「濁手(にごしで)」と呼んでいます。
この乳白色の素地が上絵の赤、萌黄色、柔らかな黄色をきわだたせています。 江戸時代の1670年代から1690年代に現在の柿右衛門窯がある南川原地区で生まれた様式と考えられています。 この様式はこの後、元禄時代に流行する金襴手におされたのか作られなくなりました。 昭和28年に12代、13代の酒井田柿右衛門氏が濁手を復活させ、現在にいたっています。
佐賀と聞いてその場所がすぐさま思い浮かばなくても、「有田焼の有田」と言えば思い当たる人はたくさんいらっしやるでしょう。そうです、この有田はずっと焼き物で生きてきた町で、焼き物の歴史が有田の歴史でもあるのです。ではその歴史はいつ始まったのでしょうか。
日本の歴史の中でも大きな事件であった、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)が、有田の始まりに大きく関わっています。 ただ、朝鮮半島の人々にとっては大変不幸な事件でもあったということを忘れてはいけません。そのことをふまえて、有田の歴史をたどってみましょう。
18世紀中頃には中国製品と比較した際の品質と価格の問題、当時の江戸幕府による貿易の制限、国内の物価の高騰など時代の流れの中で、 有田の貿易も下火になっていきました。
しかし、佐賀藩・鍋島家の御用窯の製品の確立、伊万里港を通じて国内への流通など"伊万里焼" (有田で焼いたものを伊万里港から出していたのでこう呼ばれていました)としての有田の焼き物は国内でも比類なきものとしての位置をしめるようになりました。
その後、有田の歴史の中で最も大きな災害である文政11年(1828)の大火で、町は壊滅的な被害を受けました。 日本を襲った台風の風にあおられ、岩谷川内から出火した火は瞬く間に有田の谷底を走り抜け、多くの人命と家屋を奪ったのでした。
この時の被害や 人々の様子を伝えるものに上幸平の「大地蔵」さんや、各地に残る古文書などがあります。さらにこの時から約30年後見事に復興した有田を見ることができます。それは「安政六年 松浦郡有田郷図」という古地図です。
町並みや道筋、 川、背後の山々など今でもこの地図を片手に歩けるほどの精巧さを持ち、今に残る町並みがそのまま描かれているような、懐かしさを感じさせるものです。町並みの背後に点在する登り窯、皿山を治めていた皿山代官所、高札が建てられた札の辻など、そのままタイムスリップしそうな皿山が描かれています。酒井田柿右衛門 濁手山つつじ文水注はコチラよりご確認下さい。
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