橋本雅邦の観音図|高額査定を受ける為に知っておきたい事前知識・価値
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橋本雅邦の観音図

龍に乗った観世音菩薩が描かれている。観音は三十三の姿に変化するといわれている。これは龍の頭に乗り、柳の枝を持っており、龍頭観音と呼ばれている。落款には、「行年六十一歳」とある。数え年なのでちょうど還暦の時に描かれている。橋本雅邦 買取
父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師であり、木挽町狩野家当主晴川院養信(せいせんいん おさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。
慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時正式に父と同じく養信に入門する。ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師としたと見てよい。 この時同日に狩野芳崖も入門しており、7歳年上で穏和な人柄の雅邦と激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。
両者は早くも頭角をあらわし、安政4年(1857年)23歳で塾頭となる。芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた。
安政7年(1860年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。しかし当時既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。
更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。
白雲紅樹(1890年)転機となったのはフェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。
明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、《琴棋書画図》(MOA美術館蔵)が銀印主席を取り、同じく出品した《竹に鳩》(三の丸尚蔵館蔵)が宮内省の御用となっている。明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになる。掛軸 買取 (※Wikipedia参照)
2014年2月11日放送|開運 なんでも鑑定団
橋本雅邦の観音図
●橋本雅邦の観音図
●鑑定士(田中大)の出した金額:\5,000,000
【鑑定士総評】
真筆に間違いない。観音は三十三の姿に変化するというが、その中で依頼品は龍の頭に乗り柳の枝を持っている「龍頭観音」。龍の周囲の暗闇のような気配を描く巧みなグラデーションと、すっきりとした透明感が雅邦の特長の一つ。波の線は非常に活き活きとしており、それに観音の衣文線の皺を対比させている。落款を見るとちょうど還暦の年に描かれたことがわかる。
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