千利休の書簡|高額査定を受ける為に知っておきたい事前知識・価値
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千利休の書簡

天正19年2月13日(1591)豊臣秀吉よりの使者、富田(左近将監知信)・柘植(つげ)(左京亮)により、堺への退去を命ぜられた利休は、この夜にわかに聚楽の屋敷を後にした。淀の船着場まで下った時に、見送りに来てくれていた2名に気づく。
羽柴与一郎こと細川三斎(忠興)と古田織部であった。両人の姿を見て、自分の真の理解者たちへ心からの感激の情を、飛札をくれた三斎の家老である松井(佐渡守康之)へ、返礼をかね書き遣わした書状である。現存する利休最後の書状とされている。
利休は大徳寺の山門(金毛閣)の上層に雪駄を履いて杖をつき、雪見をしている利休像を安置したゆえに秀吉の怒りをかって堺に下向を命じられた。淀川から堺に下る利休を送ったのは古田織部と細川三斎だけだった。
2月25日その利休像が一条戻橋に磔にされ、その三日後利休自身の首も曝された。利休の最後は、表千家所蔵の千利休由緒書によって伝えられている。堺で静かにしていた利休は2月16日京都に呼びつけられる。
京都の聚楽屋敷に呼び戻された時、3000人以上の上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだ。利休は弟子の岩井からの事前連絡で、検使役3名、尼子、安威、蒔田を茶の湯の仕度をして待った。利休の弟子であった蒔田淡路守が介錯をした。
一条戻り橋に利休の生首がおかれた。首は一端、秀吉の近くまでは行ったが程なく一条戻り橋に戻された。千利休の直筆の手紙。天正16-17年頃の利休60歳代後半に書かれたものと思われる。
「明朝の事はご丁寧にありがたく存じます。ゆるゆると参ります。雨はやむことでしょう。お目にかかりましてお礼を申し上げます」ということが書かれている。
宛名部分が端裏にあり判読できない。裏写りしたものを反転させてみると芝という字がみてとれる。おそらく芝山監物ではないかと思われる。掛軸 買取
2014年4月1日放送|開運 なんでも鑑定団
千利休の書簡
●千利休の書簡
●鑑定士(増田孝)の出した金額:\10,000,000
【鑑定士総評】
利休の自筆の手紙に間違いない。天正十六~十七年くらい、利休が60歳台後半のときに書かれた物だろう。利休の書は晩年になるほど線がきつくなる。特に角の部分が鋭角的になるのだが、依頼品にはその特徴をよく備えた字が見える。花押は虫のオケラに似た形なので茶人はケラ判と呼ぶもので、自筆と認められる。端の裏に宛名が書いてある。「芝」という字が見てとれるので、利休七哲の一人、芝山監物に宛てた礼状ではないか。箱の蓋裏に表千家十一代碌々斎の極めが書かれており、箱の表には表千家十二代惺斎の箱書きがある。
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